2014/03/25 (Tue) 名前忘れ一人

母もまた、名前忘れ一人の人間なのだ。強さも弱さも持った、一人の女なのだ。
　隅田川に浮かんだ揺れる月が、母と重なる。両親と離れ、東京に住んでみて初めて、私は両親への新しい愛しさを手に入れた。両親が選んできたこと は、その全てが決して正しかったわけではないと、今なら思える。未だに異母兄姉たちとはギクシャクしている。両親の行動で、全ての人が幸福になったわけで はない。それでも、家族という組織は、共通の目的に向かって、何かを切り捨てながらも、進んでいくことがあるのだ。
　人は、与えられた土壌の上で、最善を尽くすことができるのではないだろうか。
　幸福の形はそれぞれだけれども、組織の中で目指す幸福の形があるのなら、私もそれに協力したい。やがてすべては海に流れ、新たな未来がやってくる。そのときに、後悔しない生き方ができる、私はそんな人でありたい。 

2014/03/25 (Tue) 名前忘れした姿

両親は、どんな気持ちで、その日を迎えるのだろう。考えると、甘い気持ちが、私の胸に広がった。それは決して、嫌なものではなかった。
　月に一度、恐る恐るといった感じで、母から電話が掛かってくる。
　もう、住んで三十年にもなるというのに、またぎこちない方言で母は言う。
「あんたが結婚したら、あたしの大島紬を譲っちゃるけんね。あたしが死んだら、全部、あんたのもんやけん」
　あんたが結婚したら、というのは、もう母の口癖になっている。最近は弱音をはくことも増えた。
「うちは着物やら、よう着きらんよ。それに全部ってゆうほど何もなかろうもん」
　私は苦笑しながらそれに答える。未だすらすらと出る方言に、少し安心しながら、小さくなったであろう母の名前忘れした姿を想う。

2014/03/25 (Tue) 名前忘れはと

母はそれでも、名前忘れはと、行けない理由を並べるが、少し声が弾んでいることに、私は気づいている。
　トイレが近いというので、実家から車で一時間ほどの温泉を選んだ。犬を置いていけないというから、ペットと泊まれる宿にしぼった。料金に関して は、私がすべて支払うから気にするなといった。そうやって問題をクリアしながら、私は自分が、どこかワクワクしていることに驚いた。
　これまで、私たち家族を組織してきたのは両親だった。それが今、家族という組織を組み立てる役割を、私も担っているのだ。
　家族旅行は、内心少し億劫だった。それでも、私たちは家族旅行を経験しておかなければいけないと、私は考えたのだ。もうすぐ、その旅行の時がくる。